2010年11月3日水曜日




学生の頃埼玉に住んでいた僕は、たまに実家に帰ってきては夕方になると浜で夕やけを見ていた。

オレンジの西日が部屋に入り始めた頃にドアを開け、すぐ前の浜に着くとたいてい先客が一人だけいた。

当時彼は、沖に伸びる埋め立て地の一番海に突き出た角っこに佇んでいて、僕の目線より高い場所から夕焼けを見ていた。僕もそこから夕焼けを見たことがある、あそこは誰もいない最高の場所だった。

鳥の気持ちはわからないけど、彼は何十分もずっと夕焼けのほうに向いて動かない。餌を探していたりする様子もないし、何かを待っている感じでもない。だから、彼も同じ理由だな。ということで親しみを込めて彼の後姿と夕焼けを眺めるのがたのしみだった。

ちょっと前に埋立地に施設ができてからは彼の姿はいつもの場所になく、少し心配していた時期もあった。
だけど、彼は今も別のところで夕焼けを見ている。人気のいない岩場で。

前と比べたら、僕と近しい目線の高さになった。今日は久しぶりに浜に行く予定なので多分彼と会うかな。
彼のうちは僕のうちの裏山にある。

2010年10月15日金曜日

何気ない横顔



アコとニールは僕ら夫婦と仲よくしている、フォトグラファーとガーデナーの夫婦だ。

僕ら夫婦は先日鴨川でハウスシッターをしていたので、その何日間かを一緒に暮らした。
夕飯を作り、「頂きます」の前にニールが机に置いたのは、草の入ったフィルムケースだった。

緑を入れるのに丁度よいサイズが、たまたまフィルムケースだったのだろうけど、僕はこのテーブルに置かれた緑が二人の夫婦の横顔を静かに表していたように見えて、嬉しくなった。

ある日の様子1

ある日の様子2

2010年10月10日日曜日

田舎のサブカルチャー




高校の頃、帰りの電車で一緒だった同級生の友人が、駅の待合小屋にあったくだらないシモネタの落書きを見て、「こういうのを文化財にしたらいいのに。」と冗談を言ったのをたまに思い出すことがあります。

きっとこの手の落書きは、全国津々浦々にあると思います。この手の落書きはいずれ消される、切なくはかない運命です。一人書くとつられてまた増えて、相合傘や文句、あるいは少年の夢や誓いみたいなものも、付足されていき、収拾つかなくなるときれいにペンキで上塗りされます。

きっとこの緩やかなせめぎあいは、今も続いているでしょう。
駅の待合所、そこは田舎のアンダーグランウンドな胎動が聞こえる数少ない素敵な場所だと思います。
旅先で入るとまた趣があります。
写真は保田駅。

2010年9月27日月曜日

田中一村展にて 入日の浮島



昨日、一村の作品を観に行ってきました。
夏に美術館の前を通り、はじめてポスターにされた代表作「アダンの海辺」を見た時に、この絵は今どこにも存在していなくてこの先の未来に描かれるような錯覚に似た印象を受けました。それ以来気になって仕方がなかったのです。

一村の作品群を観て、僕の受けた印象がなんとなくわかった気がしました。
彼は独自の自然観によってとらえた身近にあるけしきを、じっくり見て描いていた人なんだと思いました。千葉に暮らした時は、近くの農村風景やどこにでもあるソテツの木を描き、奄美にはなぜ渡ったかはわかりませんが、そこでも身近なけしきを捉えていたのだと思います。多分、僕が受けた最初に書いたような印象は、彼の持つ自然観によるものかなと思いました。

「アダンの海辺」に添えられた直筆の文には
「アダンは亜熱帯の海浜植物 実は熟すれば芳香なれど 人間の食用となる部分は希少 野鳥の餌となるだけ」と書いてありました。エゴがなく、ただただ自然のいとなみを見ていた姿勢が伝わってきます。きっとこの姿勢が絵に自然そのものを宿し、古さ感じさせるものを無くしているんだろうと思うのです。

それから、驚いたことに展示されていた一枚の作品「入日の浮島」は僕の実家の近くでかかれたものでした。
中高時代、ほぼ毎日通った海岸なのできっとあそこに座ったんだなとピンと察しが着きました。一村がじっくり見た景色を僕はほぼ毎日見てたんだ!と思うと嬉しくなりました。一村をみならって身近な風景を丁寧に見ていこうと思っています。
(写真は別の場所から撮ったものです)

2010年9月19日日曜日

Nさんのうちわ



今日は鴨川に知人の仲間が子どもたちも含めて10人以上集まり、山あいの3箇所の畑でなす、トマト、オクラ、ピーマン、ナス、バジル、、などを採り、夕方からNさん宅の庭先にあるアースオーブンでピザを作ってみんなで食べた。

Nさんは移住して20年以上で、洋服などを作っている女性の方。そのセンスはきれいな新築の建物とその間取りや、家の中にそろっているあらゆるものに宿っているようで、暮らしと繋がった「ぶれのない感性」みたいなのを感じた。

余談だけれど、僕の思ういい会社やお店(とくにカフェ)にある特有の「どこを切り取っても出る素敵感」みたいなのはこういうぶれのない感性から生まれると思う。

バーベキューの火起こしにお借りした房州うちわ。フチも剥がれるほど使い込まれている佇まいがとても暮らしや住まいに馴染んでいる気がした。

2010年9月13日月曜日

小さな駅、にったの



 「長い旅行に必要なのは大きなカバンじゃなく、口ずさめる一つの歌さ」スナフキン

先日、いすみ鉄道の小さな駅「にったの」に行ってきました。無人駅の短いホームには、塗装のはがれそうな駅名の看板、ほうきとちり取りがありました。ひとたび降りたら一時間くらいは次の電車を持つしかない路線。車を降りてホームにいると列車がやってきました。この言葉は列車が去るときにスナフキンが言っていたような気になります。いすみ鉄道、ゆっくりしたい時に乗ってみるのもいいかもしれません。ホームには、稲のいい香りがしていました。

2010年9月4日土曜日

いい小屋見っけ



小屋の持つ魅力について描かれた本や特集を目にすることがあります。
それだけ小屋は人の心をつかむのでしょう。僕も道端の手作り小屋にはつい反応してしまう癖があります。

きっかけは実家の近くにかつてあった木造の花の出荷小屋だろうと思います。
幼い頃に朽ちてつぶれてしまいましたが、そのボロボロの小さい空間に屋根板の間から差し込む光が好きでした。

最近出会い、一目見惚れしたこの小屋、まるでカップマルタンの休憩小屋のよう。
千葉市郊外にポツンと建っています。

ご主人を見かけたことはありませんが、どんな人なのかな?とか、まさかカップマルタンをイメージしてないよな?とかこの素材感の調和は選ばれたのかな?など想像が膨らみます。
いずれにしても小屋の魅力は「ブリコラージュ」と「偶然美」かなと思っています。